木曽路を行く~ 受け継がれる素朴なくらし妻籠宿
人気はナンバーワン? ~中山道宿場町の妻籠宿
江戸と京を結んだ中山道69次の宿場のうち、江戸から42番目が妻籠(つまご)宿です。
峠を越えて、わずか8kmしか離れていない馬籠の宿は岐阜県中津川市ですが
妻籠宿は長野県木曽郡南木曽町に属し
JR南木曽の駅から車で10分ほどで行くことができます。
妻籠のみならず、どこの宿場もおそらく同様であったと想像できますが
明治時代に鉄道の発達や道路の整備などで一時衰退をみました。
昭和になり江戸時代の宿場の街並みを保存しようと言う気運が高まりました。
妻籠宿は歴史的町並み保存の先駆的存在であったようです。
おすすめ度では、その観光化されすぎない静かな佇まいから
近隣の宿場町の中でも一押しする声が多く聞かれます。
静かな佇まいの中に、おもてなしのこころが・・・
妻籠宿の味わいとも言えるのは、馬籠宿より観光客が少なく静か。
江戸情緒を感じさせる景観の中に普通の生活があって
変に商業化されていないところでしょうか⁈
その素朴な暮らしが脈々と受け継がれて
今に続くような雰囲気とでもいうのでしょうか!
家の前面の戸板や格子の桟に、さりげなく生花が飾り付けられ
道行く人たちをもてなしているかのようです。
思い思いのしつらえで生けられた一輪の花に心癒されます。 (*´▽`*)
メインは寺下の家並み
妻籠宿の保存運動は、そこに人が住み生活しながら続けられてきました。
最初に保存事業が行われたのは光徳寺の坂を下った「寺下地区」で
謂わば、保存の取り組みの原点ともなったところだそうです。
素朴で繊細な家々の造り。
特徴は昔の旅籠そのままに出梁(だしはり)造り(注1)、竪繁格子(たてしげこうし)(注2)
なるものが維持保存されています。
家屋の細部に生活のための様々な工夫が凝らされ
それが、絶えることなく大切に継承されています。
妻籠の枡形(ますがた)は、徳川家康が慶長6年(1601年)に宿場を制定した際
西国大名の謀反に備え、江戸への侵略を遅らせるように設けられたもの。
(注1)出梁(だしはり)造りー宿場町で梁を街道側に突き出させた造り。
(注2)竪繁(たてしげ)格子ー竪(縦)の組子の密度が高く組み込まれ隙間が少ない格子。
話のタネはつきずぅ~
枡形の手前、町のほぼ中心に観光案内所があり、 外国人利用者の姿が見えます。
観光案内所脇の階段・・・なぬぅ~ぎんもくせいの天然記念物とな?
どんな木なの? 階段かったるいけど、60㍍で行けるならなら行ってみるか!
おお~ でかいやねぇ~ まぁ~ただの木だけど・・
話のタネ・・・話のタネ・・・。
この洋品店、妻籠では変わり種のお店で目を引きます。
妻籠の住民は、「貸さない」「売らない」「壊さない」の三原則で
街並みの保護に取り組んでいて、ご主人は間違いなく地元の方でしょう。
江戸火消しの半纏を使った「脚deまとい」という刺し子のズボンを自作されてます。
妻籠の水車小屋は、坂道の途中
お上の御威光そのままに、人々を見下ろすような高札場のすぐ前にあります。
近くには、口留(くちどめ)番所あとが、中山道を行く人々を
監視していたものと見えます。
更に坂道を登っていくと、鯉岩の看板が。
中山道三名石のひとつとされていて鯉の形だったのが、残念ながら
明治の御代に濃尾大地震で頭の部分が落ちて形が変わってしまったのだとか。
その向かいにあるのは、南木曽町の重要文化財「熊谷住宅」。
熊谷住宅は、左右の建物が取り壊され残りの左右半分を
一軒屋にした長屋の遺構だそうです。
色々な生活道具が置かれていて、眺めていると中に人がいて
聞くともなく聞こえてきたのは、どうもこの家の持ち主と役所の人の会話?
持ち主(かも~な人)
「歳なもんで、なかなか管理ができなくて・・・」
役所職員(かも~な人)
「いやいや、もう~開けて頂くことが大事で・・・助かってますから・・」
そのような主旨の会話。
過疎や老齢化のなか、町を維持するための苦労の一端を垣間見たような・・・。
忘れちゃならない、またまた五平餅を食すぞぉ~
木曽路をめぐり、念願の五平餅を食べられてゴキゲンです !(^^)!
この妻籠で旅も終わり。
最後に五平餅食べとかないと、夢にでてくるぞ~ 😋
目についたお店に入って、訊いたらすぐできるとの事。
五平餅は全部で4回頂いたけど、
形やお餅の食感、それにタレとお店の特徴がそれぞれあるようです。
わたしは、ここのが一番好き! 好みの味で良かったぁ~
時期を知ったヒガンバナが咲き始めていました。