鶴ヶ城 ~会津街道を行く
「赤瓦」が美しい会津鶴ヶ城
鶴ヶ城の歴史を紐解いてみる!
真っ白い壁が赤瓦に映える会津若松市のシンボルである「鶴ヶ城」
その始まりは、室町時代の初め葦名直盛が造営した「東黒川館」とされます。
当時は天守閣のないお館程度だったようですが、安土桃山時代に蒲生氏郷が七層の天守
閣を築いて「鶴ヶ城」と命名したと伝わっています。
現在の形の五層の天守閣になったのは、江戸時代の初めの会津大地震で大きな被害を受け
時の統治者の加藤明成の大改修によるものだそうです。
しかし、幕末の会津戦争で激しく痛んだ天守閣は明治7年に取り壊され、ようやく昭和
40年になって再建、平成23年(2011年)に黒瓦から赤瓦に葺き替えられ幕末時の姿を取り
戻したということです。
難攻不落の名城と称えられた「鶴ヶ城」
鶴ヶ城は会津若松市街にあり、その美しい天守閣はおよそ市内のどこからでも望めます。
正式には「会津若松城」と称する鶴ヶ城、広さ東京ドーム6個分で東北有数の規模を誇ります。
五層の内部は博物館となっていて、歴史のテーマに従って各層にパネルや収蔵品の展示
を見ることができます。
1868年に起こった戊辰の戦役では、多勢の新政府軍の猛攻の前に約一か月もの間籠城し
遂に落ちることがなかったという難攻不落の城として、その名を天下に知らしめました。
城を守って一人の敵兵の侵入も許さなかった会津藩士の気迫、そして悲劇的ではあった
けれど白虎隊の潔い最期は、会津藩校「日新館」の教え「ならぬものはならぬ」の精神
が生かされたものでしょう。
「鶴ヶ城公園」の見どころをちょっとだけ!
【鉄門(くろがねもん)】
帯郭から本丸へ通じる表門で、鉄門と書いてくろがね門と読みます。
柱や扉はすべて鉄で覆われていて、この名がついたのだそうです。
【武者走り】
本丸へ向かう左手にある石垣。
大事の時にすれ違う武士の刀がぶつからぬよう、あるいは槍を構えたまま昇降できるよ
うに、左から上って右から下りるという一方通行の決まりがあったと言われます。
【北出丸】
3っの入口(太鼓門、搦手門、廊下橋門)の枡形の石垣守られ、内部は城兵が自由に移動で
きる石段になっています。
侵入した敵は、三方からせん滅され「皆殺し丸」という恐ろし気な名で呼ばれていたそうです。
【茶室 麟閣】
豊臣秀吉に断罪された千利休。
利休の茶道が途絶えるのを惜しんだ当時の会津領主「蒲生氏郷」は
利休の子の「小庵」を会津にかくまい、秀吉に千家の復興を願い出ました。
結果的には、秀吉の怒りは解け千家再興が成ったということです。
それはとりもなおさず、今の茶道の隆盛に大きな役割を果たしと言えるかもしれませんね。
【稲荷神社】
西出丸を入ったところに稲荷神社があります。
これは、葦名直盛公が東黒川館の頃の鎮護として鎌倉より移した神社と伝えられます。
もう一つ「鉄門」近くにも別の笠間稲荷神社があります。
【桜の名所100選に選ばれた鶴ヶ城公園】
鶴ヶ城は、大河ドラマ「八重の桜」に象徴される桜の名所でもあります。
日本で唯一の赤瓦の天守閣に彩を添える1000本の桜の木の鶴ヶ城公園は、「桜の名所
100選」に選ばれています。
会津の街に溶け込み、共にあるお城というイメージを肯定した鶴ヶ城の再訪となりました。
そして、会津魂もちょっとだけ分かったような気がします(^^)