なつかしの地、長崎紀行~ 爆心地に想う
悲しみの原点~原爆投下中心地
昭和20年(1945年)8月9日 11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂しました。
現在、その地には落下中心標柱として黒御影石の碑が建てられていて、地中には原爆によって壊された家の瓦やレンガ、3000度の熱で焼けたガラスなどが大量に埋没しています。
ながさき旅ネットより抜粋
「平和公園」から2~3分歩いた位置にあるこの「原爆落下中心地公園」一見したところ緑豊かな公園の風情です。
原爆投下直後は、爆風により周辺のほとんどの樹木は倒れ焼き尽くされ、今後70年は草木も生えないだろうとと言う“70年不毛説”が流れましたが、1か月後には約30種類の植物が芽吹いたそうです。
なんと生命は逞しいのでしょう。打たれてもすぐに起き上がろうとする意欲に勇気づけられた人もあるかもしれませんね (´ー`)
負の遺産を目の当たりに・・・
公園内には当時の地層を保存していて、見学させてくれる場所があります。
ガラス越しですが、瓦やガラスなどが土に埋まっているのを目で確認できます。
かつては町の一部を形成していた物であり、そしてそこで営まれていた生活、生命を一瞬で奪われた残酷さが想われます。
愛と信仰の場所である教会も原爆の犠牲になっています。
ご存じのように長崎市は、歴史的にキリスト教の教会が多いところです。
爆心地から約500mの地点にある浦上天主堂は、当時赤レンガ造りの東洋一と言われた大きな協会だったそうです。
原爆の日に可燃物はすべて焼失し、石像や鐘楼なども破壊されました。
現在は再建されていますが、残った部分がこの公園の端に移築されており、平和の祈りの千羽鶴が手向けられています。
公園内の最も目立つところに立つのが「被爆50年記念事業碑」です。
傷ついた子供を抱くお母さんの像。
台座には原爆投下日時が刻まれています。
胸の底から悲しみが湧いてくるような、インパクトのある像です。
多くの人には、語らずとも平和の本質が理解されるのではないかと感じました。
日本人のみならず、様々な人の祈りを~
「爆心地公園」から道路を挟んだすぐ隣の階段を上ると「原爆資料館」があります。
もう、夕刻だし・・・閉館時間近いし・・・外に行きたいところあるし・・・
随分前の記憶なんだけど、古くて深い傷のように・・・あたかもPTSDでもあるかのように、わたしのヘタレな心は資料館への入館を拒みます。
また、嫌なものから・・心を苦しめるものから逃げ出そうとする悪い癖が出ました。
だって・・目を覆いたくなる映像が脳裏に焼き付いているんですもの~ 入館は無理です! _| ̄|○
記念館へ続く階段わきには様々な記念碑が建てられていました。
外国の人たちの慰霊も・・・
そして、鉄道関係殉死者の碑も。
日本のみならず、世界中の平和を祈る人々の思いがこの地に宿っているような、そんな気持ちにさせられました。
「原爆投下公園」傍を流れる川にかかる橋には、平和の象徴白いハトが踊っています。