会津松平氏庭園「御薬園」~会津街道を行く
国指定 名勝会津松平氏庭園
御薬園とは、鶴ヶ城の東に徒歩15分の場所にあり、中央に心字の池を配した回遊式の借
景園と、そして各種薬草園を含むことが名前の由来だそうです。
室町時代に葦名盛久が霊泉の湧き出したこの地に、別荘を建てたのが始まり言われます。
昭和7年に徳川時代の代表的な大名型山水庭園として国の名勝に指定されました。
大名家にちなむ由緒ある庭園を見たいと言うだけの興味で訪れましたが
熱中症が懸念されるほどの8月の暑さの中、倒れないうちにと大急ぎで見せていただました。
御薬園入園
案内図の普通駐車場(無料)に車を停め、大型駐車場前の受付で入園をお願いします。
入園料大人330円。
園内のお茶御殿「楽寿亭」でお抹茶を頂けば入園と合わせて800円。
どうやらこの暑さでは、ゆったりお茶を楽しむ人はいないと思われます。
それどころか、園内で顔を合わせた他の入園者は一組のカップルのみ。
入園に際し「暑いので、マスク着用には及ばない」とのことでした。
風情ある冠門をくぐり心池と楽寿亭を眺める
よく整備された美しい歩道。
爽やかであるはずの緑の庭木も炎天下では、その葉裏の照り返しが目に痛い。
もっとも見事と言われる女滝から見る「御茶屋御殿」
心池や庭園が見渡せる、松平容保公別荘「御茶屋御殿」
薬用植物標本園
栽培中の「オタネニンジン」をはじめとして
酷暑のなか、さまざまな薬草が整然と並んで栽培されています。
移築された秩父の宮妃ゆかりの重陽閣
御薬園の片隅の「重陽閣」は、会津藩最後の藩主である松平容保の孫であり、秩父宮に
嫁がれた勢津子様ゆかりの建物です。
昭和3年(1928年)竣工の「重陽閣」は、もとは東山温泉の新滝別館だったそうです。
妃殿下が婚儀の前に家族と宿泊されており、昭和48年(1973年)御薬園に移築され、ご自
分の誕生日の重陽の節句にちなみ「重陽閣」と命名されました。
勢津子様の皇室への入輿は、幕末以来賊軍のレッテルを貼られ肩身の狭い思いをしてい
た会津の人々にとって、悲運な歴史を華やぎに塗り替えるような出来事だったようです。
「プリンセス・チチブ」と勢津子妃殿下の名を冠したこのバラは、イギリス人から捧げ
られたものだそうです。
残念ながら閉まっていましたが「重陽閣」では、勢津子様がお好きであった英国紅茶や
お菓子、ガレットが楽しめる「Tea Room」があります。
喜多方町「旧甲斐家蔵住宅」~会津街道を行く
「蔵の街」喜多方の蔵屋敷を見よう
日本三大ラーメンのひとつとして、あまりにも有名な喜多方ラーメン発祥の喜多方町。
魅力はラーメンのみに止まらず、酒や味噌・醤油の醸造蔵の街としても有名です。
そうした昔ながらの蔵屋敷のいくつかは、見学が可能です。
喜多方町ふれあい通りを歩いた折に、観光案内所で熱心に紹介されたのが
喜多方随一の豪華な黒漆喰の蔵屋敷である「旧甲斐家蔵住宅」でした。
「旧甲斐家蔵住宅」は、ふれあい通りをずっと北のはずれまで行ったところに
あります。
重厚な風格の「旧甲斐家蔵屋敷」
ふれあい通りを行くと、国道沿いにひときわ重厚な佇まいの旧甲斐家蔵住宅は姿を現ます。
お屋敷の脇からレンガ造りの塀沿いに、裏手にある無料駐車場が案内されます。
旧甲斐家蔵屋敷の建築
喜多方甲斐家の始まりは、江戸時代の元禄年間に信州より移り住んだことからです。
この地で酒造りから始めて、味噌・醤油の醸造業で財を成し、蔵屋敷を建築するに至りました。
この有形文化財に登録される建築物は、いずれも大正時代に建てられたものです。
四代目「甲斐吉五郎」が大工の棟梁「宇佐美楽四郎」と共に、京都から北海道を旅しな
がら名家を見て回ったうえで設計施工したものです。
多くの銘木や高価な黒漆喰、大理石などを贅沢に使い、7年の歳月と多くの労働力
さらには、職人の磨き抜かれた技術を使い旧甲斐家蔵住宅は完成したのです。
費用も大変なもので、現在の貨幣価値で5億円とも言われています。
旧甲斐家蔵住宅は、店蔵、座敷蔵、醤油蔵が国登録有形文化財に指定されています。
度肝を抜くらせん階段の店蔵部分
旧甲斐家住宅は、昭和28年に喜多方町が収得し無料公開されています。
内部にはいる事はできませんが、庭からのみ見学が可能となっています。
国道沿いの店蔵入口を入ると、無料ガイドの方が施設案内をしてくださいます。
※無料ガイド案内で、いかに財を傾けて作られたものか、いかに技術の粋を尽くしたものであるか、
そして国登録有形文化財として貴重なものであること、細かい見どころなど分かりやすい説明を
聞くことができます。
店蔵部分での見どころは、何と言っても巨大ケヤキを削って作られたらせん階段です。
この吊り階段は、恐らく他では見ることができない、稀有なものではないでしょうか。
ガイドさんの説明によると、当主は棟梁に金に糸目をつけない報酬を約束し
家一軒分の費用を支払ったとのこと。
奥座敷は別名「烏城」
旧甲斐家蔵奥座敷は、別名「烏城(からすじょう)」と呼ばれています。
蔵の外壁を黒漆喰で塗り重ねており、黒塗りの岡山城の別名にちなんだものだそうです。
この黒漆喰とは、漆喰に松の油煙などを混入したもので、白い漆喰に比べ格段に高価なもの。
<喫茶 烏城西洋室>
<銘木をふんだんに使った奥座敷>
<大理石のお風呂場>
名作庭家が手掛けた庭園
重厚なレンガの塀と座敷蔵の間に池泉回遊式の庭園が設えられています。
作庭は大正時代で、名作庭家である「松本亀吉」。
東京の「渋沢栄一」邸、新潟の国指定名勝「旧齋藤家別邸庭園」を手掛けた人で
格式の高い作庭を見ることができます。
どこを見てもスゴイの一言!
ちゃんと後世に残るように維持管理されていて、かなり見ごたえがあった!
訪ねてみてよかったです~(❁´◡`❁)
本場の喜多方ラーメン ~会津街道を行く
蔵とラーメンの街~喜多方
福島県の喜多方市は、日本三大ラーメンのひとつに数えられる喜多方ラーメン発祥の街。
蔵が多く立ち並ぶ街並みを楽しめることから「蔵の街」としても知られています。
市内に120軒あると言われるラーメン店の歴史は、昭和2年「源来軒」創始者の藩欽星
(ばんきんせい)という人が、麺を打って屋台を引いたのが原点と言われています。
喜多方市役所前の駐車場に車を止め、ラーメン店がひしめくふれあい通りへ向かいます。
さて、どのお店で食べたら本場の味に出会えるんだろう?
喜多方で2番目に古いラーメン屋「上海」
ラーメン屋さんが、たくさんありすぎて完全に決めきれなくなってる我々(~_~;)
ちょうど立ち寄った「蔵の街観光案内所」のおじさんが勧めてくれたお店「上海」に。
お店の前に到着すると営業終了の札がかけられていて、女性が暖簾を外しているではあ
りませんか!
「スープがなくなったので、閉店なんですよ」でがっかりしかけたけど・・・
「お二人なら、どうぞ入ってください」と言っていただきました😂
ラーメン店「上海」の創始
「ラーメン店上海」は昭和23年の創業で、喜多方では2番目に古いお店とのこと。
初代店主が中国の上海でラーメンに関りを持って以来、半世紀に渡り味作りにこだわり
続けてきたお店だそうです。
一日の仕込み量以上は、販売しないという創業以来のこだわりを持っていて
スープがなくなり次第閉店というスタイルは変わらず続いています。
店内は狭く、昭和な雰囲気が漂っているけれども、切り盛りしているのが女性2~3人
なので清潔に保たれている感じです。
喜多方ラーメンのお味
注文したのはオーソドックス(?)に、チャーシュー麺です。
さして待つことなく、小さいお盆にのって漬物付きで提供されました。
まずは添えられた蓮華でスープを口に運びます。
思わず二人で目を見合わせました・・・うま~い!
あっさりしていながら深みのあるしょう油ベースのスープ。
優しくまろやかなうま味。
やや腰の強い太めの縮れ麺にうまく絡み、もちもちした麺も美味しいのです。
添えてあった大根の漬物も自家製みたいで、美味でした!
「食べそこなわなくて良かったぁ~」🤣
「このお店にしてよかったぁ~」かどうかは、他を食べていないので分かりませんが。
わたしたちが食べてる間、3組もの人が持ち帰りセットを買いに来ましたよ。
お土産屋さんです。「喜多方ラーメン館」
「喜多方ラーメン館」は、喜多方市役所のとなりにあるお土産屋さんです。
喜多方ラーメンで有名な「河京」さん直営のお店だそうです。
福島のお土産ものなら何でもそろっていて、特にラーメンにまつわるものがたくさんあります。
ラーメン工場のディスプレイまで。
麺の製造工程はすでに終了していて見ることはできませんでしたが
蕎麦打ちの実演は見かけても、ラーメン作りは見たことなかったなぁ~(@_@)
最近、近くに喜多方ラーメン「坂内」というのがオープンしました。
喜多方でやたら案内板を見かけた老舗のラーメン屋さんらしいですね!
そして各地にチェーンの店舗があるみたいです。
喜多方で食べた「上海」の味を忘れないうちに、是非に食べ比べをしてみないと😋
「蔵の街」喜多方 ~会津街道を行く
ラーメンだけじゃない! 喜多方は「蔵の街」
江戸時代より会津若松城下と米沢を結ぶ街道の町として栄えた喜多方の街。
日本三大ラーメンのひとつに数えられる、喜多方ラーメン発祥の地として有名ですが
一方で、古き良き時代を感じさせる多くの蔵が並ぶ「蔵の街」としても知られています。
4200棟以上もの数を残す喜多方の蔵は、観光のために作られたものではなく、今でも
人が住んで酒蔵、味噌・醤油の蔵などが実際に使い続けられています。
このような暮らしに密着してのあり様が、懐かしい郷愁を起こさせるもののようです。
喜多方の「ふれあい通り」を歩く
本場の喜多方ラーメンを食すのを目的に訪れた我らでしたが、せっかくだから
このレトロな街並みを歩いてみようと言うことに。
喜多方の蔵造りの建物が多く残っている通りと言えば、「ふれあい通り」と「おたづき
蔵通り」があります。
ふたつの通りの間に位置する喜多方市役所前の駐車場に車を停めて歩き出そう~♪
歩いたのは、通りまでの距離とラーメン店の多さで「ふれあい通り」を選択!
平坦できれいに整備された街道沿いに、素朴な蔵造りの建物が並んでいます。
お醤油醸造の若喜商店のレンガ蔵は、無料で見学することができます。
奥には、登録有形文化財にとなっている縞柿という珍しい材木で造られた、座敷を見る
ことができます。
蔵の街案内所(観光案内所)
ふれあい通りの中ほどにある観光案内所の内部には、喜多方の物産が紹介されています。
コンシェルジュの男性(おじちゃん)はとても気さくで親切な方で、おすすめの喜多方ラ
ーメン店や見逃せない観光ポイントを教えてくださいました(^^)
喜多方ラーメンミュージアム
観光案内所から数メートル歩くと、鳥居のある建物に行き当たります。
割り箸を模した鳥居に「喜多方ラーメン神社」の文字があるラーメンミュージアムです。
ここでは、喜多方ラーメンの起源や歴史的背景、麺やスープの美味しさの秘密などが
展示されていると聞いています。
ラーメン丼のご神体を写真に撮ろうと構えていたのに・・・・
窓ガラスには白いカーテンが下りていて、なんと定休日でした😆
もう一つの蔵の街通り「おたづき蔵通り」を車で走らせると、軒は少ないですが
これぞ古くからの醸造蔵だ!という建物が並んでいました。
レトロな雰囲気が味わえるのはふれあい通りより、こちらの方かなと思いました。
次の機会には絶対に「おたづき蔵通り」を歩こうっと!
今度は喜多方ラーメンの味、または見学させていただいた蔵住宅について語ってみたいと思っています。
思いがけず特典クーポンget ~会津街道を行く
地域経済の復活のために地方も頑張っているんだね~
国の緊急事態宣言以降は、観光客の足が止まり疲弊した観光業界を何とかもり立てようと
GoToトラベルに続き、GoTo イートもスタート目前です。
GoToトラベルが始まる以前に、地域クーポンなるものがネット検索に引っかかること
がありましたが、いずれもそこに居住している県民限定でした。
新型コロナ蔓延を危惧して、他県民の往来を拒否する空気が色濃かった時期です。
旅行者にお得なクーポンがあった!
8月初旬に会津街道をなぞった旅の途中の事、たまたま通りかかった観光案内所の入口
に貼られたポスターが目に入りました。
ん・・・?
どうせ県民対象でしょう?
おや~ そうでもなさそうな感じ・・⁉ ちょっと訊いてみよう!
訊いてみてよかったです~(^^♪
県外からの旅行者も対象となる、福島県内に宿泊した人に1泊1000円のクーポンが頂け
るというものでした。
われわれは、2泊の二人分で合計4000円、頂いちゃいましたぁ~😊
食事代に、お土産代にと大助かりです!
貧乏人はいじましい~(-_-;)
それにしても、
得をしたと単純に喜んでますが、福島の大事な県民のお金なんですよね(*_*;
そのようにしてでも観光客に来てもらわねばならない状況なんだと、ちょっとしんみり!
GoToキャンペーンで得しようとばかり構えていたことをちょっと恥じたりして・・・
お得情報探してみてね~
日本全国どこも経済の落ち込みは、言わずもがなですよね~
「新型コロナのウイルスは怖いけど、地域にお金は運んでほしい!」
これが偽らざる地方の思い・・・ そして必死の取り組みをなされています。
出掛ける側も良い情報がキャッチできれば、旅の充実度が違ってくるのも事実!
お出掛けの予定があれば、利用できるサービスを探してみられることをお勧めします。
わたしが掴んでいる情報では、広島県と高知県で助成金が利用できるようですよ!
GoToトラベルの割引に加えての割引ですから、かなりお得ですよね~(*^^*)
(詳細は各自で調べてね~(^^)v)
鶴ヶ城 ~会津街道を行く
「赤瓦」が美しい会津鶴ヶ城
鶴ヶ城の歴史を紐解いてみる!
真っ白い壁が赤瓦に映える会津若松市のシンボルである「鶴ヶ城」
その始まりは、室町時代の初め葦名直盛が造営した「東黒川館」とされます。
当時は天守閣のないお館程度だったようですが、安土桃山時代に蒲生氏郷が七層の天守
閣を築いて「鶴ヶ城」と命名したと伝わっています。
現在の形の五層の天守閣になったのは、江戸時代の初めの会津大地震で大きな被害を受け
時の統治者の加藤明成の大改修によるものだそうです。
しかし、幕末の会津戦争で激しく痛んだ天守閣は明治7年に取り壊され、ようやく昭和
40年になって再建、平成23年(2011年)に黒瓦から赤瓦に葺き替えられ幕末時の姿を取り
戻したということです。
難攻不落の名城と称えられた「鶴ヶ城」
鶴ヶ城は会津若松市街にあり、その美しい天守閣はおよそ市内のどこからでも望めます。
正式には「会津若松城」と称する鶴ヶ城、広さ東京ドーム6個分で東北有数の規模を誇ります。
五層の内部は博物館となっていて、歴史のテーマに従って各層にパネルや収蔵品の展示
を見ることができます。
1868年に起こった戊辰の戦役では、多勢の新政府軍の猛攻の前に約一か月もの間籠城し
遂に落ちることがなかったという難攻不落の城として、その名を天下に知らしめました。
城を守って一人の敵兵の侵入も許さなかった会津藩士の気迫、そして悲劇的ではあった
けれど白虎隊の潔い最期は、会津藩校「日新館」の教え「ならぬものはならぬ」の精神
が生かされたものでしょう。
「鶴ヶ城公園」の見どころをちょっとだけ!
【鉄門(くろがねもん)】
帯郭から本丸へ通じる表門で、鉄門と書いてくろがね門と読みます。
柱や扉はすべて鉄で覆われていて、この名がついたのだそうです。
【武者走り】
本丸へ向かう左手にある石垣。
大事の時にすれ違う武士の刀がぶつからぬよう、あるいは槍を構えたまま昇降できるよ
うに、左から上って右から下りるという一方通行の決まりがあったと言われます。
【北出丸】
3っの入口(太鼓門、搦手門、廊下橋門)の枡形の石垣守られ、内部は城兵が自由に移動で
きる石段になっています。
侵入した敵は、三方からせん滅され「皆殺し丸」という恐ろし気な名で呼ばれていたそうです。
【茶室 麟閣】
豊臣秀吉に断罪された千利休。
利休の茶道が途絶えるのを惜しんだ当時の会津領主「蒲生氏郷」は
利休の子の「小庵」を会津にかくまい、秀吉に千家の復興を願い出ました。
結果的には、秀吉の怒りは解け千家再興が成ったということです。
それはとりもなおさず、今の茶道の隆盛に大きな役割を果たしと言えるかもしれませんね。
【稲荷神社】
西出丸を入ったところに稲荷神社があります。
これは、葦名直盛公が東黒川館の頃の鎮護として鎌倉より移した神社と伝えられます。
もう一つ「鉄門」近くにも別の笠間稲荷神社があります。
【桜の名所100選に選ばれた鶴ヶ城公園】
鶴ヶ城は、大河ドラマ「八重の桜」に象徴される桜の名所でもあります。
日本で唯一の赤瓦の天守閣に彩を添える1000本の桜の木の鶴ヶ城公園は、「桜の名所
100選」に選ばれています。
会津の街に溶け込み、共にあるお城というイメージを肯定した鶴ヶ城の再訪となりました。
そして、会津魂もちょっとだけ分かったような気がします(^^)
白虎隊士が眠る飯盛山 ~会津街道を行く
会津街道をたどっていると、その歴史に目を触れないわけにはいきません。
そうした歴史が分かってくるにつれて会津、そして福島という土地やそこに暮らす人々への理解が、自ずと深
まっていくような気がします。
会津若松飯盛山は戊辰戦争の悲劇の舞台
飯盛山は会津若松市中心部から東2kmに位置し、城下町を一望に見渡せる小高い山。
幕末の戊辰戦争時に奮戦した白虎隊の自刃の地として知られています。
山腹には白虎隊士の墓、自刃の地を示す石碑などが設けられ西南方向には鶴ヶ城の姿も
眺められます。
飯盛山に登る。 ~スロープコンベアでらっく楽!
飯盛山手前に観光案内所、そして市営観光用駐車場(無料)に車を停めると徒歩2分ほどで
飯盛山入口に到着します。
左右の土産物屋さんを抜け進んでいくと、正面に183段もの階段が目に入ります。
1日中あちこち観光をして来て、足が棒になってる身にはなかなかしんどそう~(~_~;)
同行者は迷うことなく併設されたスロープコンベア(動く坂道)の方へまっしぐら・・・
わたしに異存のあるはずもなく、大人1名250円を支払います。
観光客は少なかったけどみんな頑張って階段を上っていたのに情けない・・・(;'∀')
白虎隊十九士のお墓
飯盛山の頂上まで上ると広場の奥にひっそりと白虎隊十九士のお墓が並んでいます。
白虎隊は慶応4年戊辰戦争において、会津藩が組織した16歳から17歳の武家男子によっ
て構成された部隊。
会津軍は、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対し劣勢は否めず、少年たちは負傷者を抱え
て飯盛山に落ち延びました。
負け戦のなか隊士らは、敵に捕らわれ生き恥をさらすことを潔しとせず、武士の本分を
明らかにするため自刃を決行したと伝えられます。
朝敵とされた白虎隊士の遺体は明治政府の(埋葬禁止令)により、長らく放置され風雨に晒されました。
漸く埋葬が許される明治2年までは、隊士を不憫に思った当時の山主飯盛正信らにより
こっそりと仮埋葬をされていたのだそうです。
今は大慰霊祭が行われ、また訪れる多くの人たちによって線香の煙の絶えることはない
ようです。
白虎隊自刃の地
実際に白虎隊士たちが自らの命を絶った場所は、現在の墓所から少し離れたところにあります。
はるか会津城下町の先にある鶴ヶ城を、額に手をかざして見る隊士像・・・なんで頭が切れてるんだよぉ~写真へたすぎ・・・_| ̄|○
隊士がのぞんだ会津城下の景色・・・鶴ヶ城は右手奥の方、写真では確認できませんね!
城からあがる煙を見た時の未だ幼い隊士たちの無念、絶望を想います。
白虎隊唯一の生き残り「飯沼貞吉」の墓
自刃を決行した白虎隊士20名のうち、刃で喉を突きながら唯一生き残ったのが「飯沼貞吉」です。
白虎隊自刃の経緯はいろいろな憶測がなされましたが、飯沼が伝え残した「白虎隊顛末
略記」によって真相が知られるところとなったようです。
飯沼は維新後を電信技士として77歳まで生き抜きましたが、終生「自分は白虎隊として
死んだ身である」との思いを貫いたようです。
そして遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬されたそうです。
飯盛山多彩な見どころ
飯盛山は白虎隊士の墓のみならず、多くの見どころがあります。
各地で戦死した会津三十一士の墓、イタリア・ドイツから贈られた記念碑、
国指定重要文化財である「さざえ堂」、他にも「宇賀神堂」「白虎清水観音」
「厳島神社」「白虎隊記念館」
そして、白虎隊に強く感銘を受けたドイツ人の墓や石碑など・・・
機会をあらためてご紹介出来たらと思っております<(_ _)>
会津西街道「大内宿」 ~会津街道を行く
江戸の宿場町の風情そのままに「大内宿」
鬼怒川から会津若松を目指して、会津街道を北上の途。
南会津下郷町で「塔のへつり」を見た後、国道121号線に戻り少し走ります。
小さな橋を越えた先に「大内宿」への看板が。
案内に従い左へ進路を取って田舎道をすすむと大内宿の有料駐車場に到着します。
大内宿は、福島県南会津市下郷町の会津西街道(別称:下野街道)沿いに、茅葺き屋根の
民家が立ち並ぶ歴史ある集落です。
約400年前の江戸時代には、重要な運搬路でもあり、参勤交代や江戸に向かう旅人の宿
場町として栄えたところです。
昔は「半農半宿」の宿場だったのが、現在は完全に観光化することによって昔ながらの
雰囲気を維持されているではないかと思います。
住民憲章を作り「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り、景観の保存と伝統
的な屋根葺きの技術習得・継承に全員で取り組んでいるのだそうです。
そのあたりは中山道の妻籠宿とも同様で、そうでなければ古き良き伝統は守り通すこと
はできませんよね! (^.^)うんうん!
今はまだ人影まばらな大内宿
新型コロナ感染症の影響で観光客もまばら。 閉店しているお店も多かったですねぇ。
大内宿街並み展示館「問屋本陣」
茅葺屋根の民家が並ぶ街道の中ほどに、敷地も広いひときわ立派な住宅があります。
かつての問屋本陣跡を再建したもので、館内には江戸時代の部屋があり、写真や
生活用具1300点あまりが展示されています。
入館料大人250円を支払います。
大内宿を見守る高倉神社と大杉
街道沿いの茅葺家並の間に唐突に見えてくる大きな鳥居。
ちょっと見には神社らしき姿は認められませんが、鳥居をくぐって山の方に5分ほど歩くと
第3の鳥居の奥に、遂に高倉神社の本殿が見えてきました。
高倉神社は、平氏に討たれてしまった才気煥発で知られる後白河法皇の第三皇子で「倉
宮以仁親王」の霊を祀ったもの。
毎年7月2日「半夏の日」に行われる古くから続く伝統の祭礼「大内宿 半夏祭り」は
この高倉神社の祭礼だそうです。 ※新型コロナ禍のため2020年は中止となっています。
見どころと言われる大杉は拝んでおきたい!
大内宿の歴史を見てきた、樹齢800年の大杉です。
名物はねぎそば(高遠そば)
お蕎麦の食べ方として、お箸の代わりにネギを使うと言う大内宿の「ねぎそば」はおも
しろい食文化として話題になったりします。
旅の醍醐味のひとつには、その土地の名物を食べるってこともありますが、我々はネギ
が苦手・・・「ねぎそば」は無理だね!
ちなみに「ねぎそば」は、長野の「高遠そば」が会津の地にまで広がったことから
はじまり、「ねぎのように細く長く白髪の生えるまでいきる」という願いをこめて
ねぎが添えられるようになったのだそうです。
塔のへつり~会津街道を行く
鬼怒川温泉~川治温泉を抜け会津へ向かう
鬼怒川温泉に1泊し、会津に向けて121号線を北上します。
多少山間部を通るのでトンネルもありますが、昔からの大きな通りの風情。
山王峠を超えたあたりにあった道の駅「会津西街道たじま」でちょっと休憩。
定番アイスでドライブ疲れをちょっと癒す!
南会津の地をさらに北に向かって車を走らせます。
やがて国道を右に折れた方向に「とうのへつり」への標識が・・・「とうのへつり」
ってなんだぁ~?
太古百万年の歴史が創り出すロマン~塔のへつり
「塔のへつり」って何か自然の造形の事らしいぞ・・・としか知識がなかったわたし。
調べてみると、100万年にわたる浸食と風化が生み出した奇岩が連なる渓谷で
塔の形が立ち並ぶ断崖という意味から名付けられた景勝地だそうです。
「へつり」とは、地元の言葉で危険な断崖を意味します。
ちょっと離れた場所に有料駐車場の表示があるけれど、入口近くの食堂兼お土産物屋さ
ん前に無料で駐車することができます(もちろん、お客さんになる必要がありますが!)
入口の表示から、きれいに整備された階段を下りていきます。
すぐにつり橋と渓谷の情景が広がります。 もうすでに絶景!
つり橋「藤見橋」は、ちょっと揺れます。 苦手なんだけど頑張った(~_~;)
それぞれの岩には形の特徴から名前が付けられているようです。
悩めるすべての人を救済する「虚空蔵菩薩」さま
「藤見橋」を渡ると、岩穴に祀られた「虚空蔵菩薩」の参道になっています。
足を滑らせたらはるか下の川に転落の危険がある、狭くて囲いもない参道ですΣ(゚Д゚)
恐怖の岩の柱を巡ると、浸食され板状になった「舞台岩」の下に小石が積まれ、賽銭が
投げられています。
賽の河原的でちょっとコワい(*_*;
すぐ脇に作られた、段幅が狭くて登るのが大変な階段を経て、お堂のある場所へ。
この「虚空蔵菩薩」の創建は大同2年(807年)坂上田村麻呂によると伝えられ、本堂は
江戸時代に再建されたものだそうです。
中には菩薩さまが祀られているのですが、住職が在寺の時だけ扉が開かれるそうです。
(在寺の日時は不定期。) ※管理は下郷町塩生の旭田寺ときいています。
知恵や福徳をもたらす菩薩様。
縁結びや長寿祈願で多くの人が訪れるそうです。
会津のおそばを食す😋
「塔のへつり」と「虚空蔵菩薩」さま参りが済んで、ちょうどお昼の時分どき
車を停めたお土産屋さんに戻ってお昼飯とします。
会津庶民の味と言われる「ソースカツ丼」を食べたかったけど、あまり注文する人がい
ないのか、今はやってないとのこと。
むちゃくちゃ暑かったので、唯一の冷たいメニューである「山菜たぬきそば」を注文。
観光地にありがちなツーリストメニュー的な味かなと、期待していなかったのだけど
なかなか美味しくいただけました。
おろした辛み大根が添えられていて、お蕎麦も風味豊かでした(^^)v
さあ~ 次は同じく南会津下郷町にある大内宿を目指します。
龍王峡~ 日光国立公園内
<会津街道を行く>
素晴らしい渓谷美、龍王峡
龍王峡は、今からおよそ2200年前、海底火山の活動によって噴出した火山岩が、鬼怒川
の流れによって浸食され、現在のような景観になったと言われています。
また、龍王峡という名称は、その光景がまるで龍がのたうつ姿に見えることからき
ているようです。
日光鬼怒川温泉から鉄道路に沿って、国道121号線を鬼怒川上流の川治温泉方面に進むと
左手に結構広めの駐車場が開け、その片隅に何だか遠慮がちに野岩鉄道会津鬼怒川龍王
峡駅が見えます。
ここに龍王峡駅があることで、都内から電車一本ですぐに渓谷の目の前までアクセス
でき、日帰りハイキングも可能なのがスゴイところです。
いよいよ龍王峡に分け入ると
龍王峡駅のすぐ前に並んだ、10軒ほどのお土産物屋さんの端っこに鳥居が見えます。
ここが、龍王峡の入口。
なんで鳥居? 多分、この奥に何かが祀られているのでしょう!
駅前に設置された案内板に従って、1⃣の「五龍王神社」から4⃣の「竪琴の滝」までを巡
ります・・・・むささび橋に向かったけど、⚡が鳴って途中でヘタレたんだよぉ~😞
帰り道に苦しんだ長~い九十九折の急な下り坂・・・行きは良かったんだけどねぇ~(~_~;)
道しるべは大事! 熊も出ると言う山のなか・・・迷子になりたくないよぉ~
1⃣ 五龍王神社
長くて急な坂を下っていくとようやく木々の間から見えてきたものがあります。
五龍王神社は鬼怒川と川治温泉の守護神が祀られています。
2⃣ 虹見の滝
ふぁ~ マイナスイオンたっぷり~! たくさん浴びておこう!
3⃣ 虹見の橋
虹見橋からの景色が素晴らしいです。
ここまでに見てきた五龍王神社や虹見の滝も眺めることができます。
4⃣ 竪琴の滝
さらに山道を登っていくと竪琴の滝の表示が。
ちょっとこじんまりとした滝「竪琴の滝」は静かにひっそりと。
少し奥の「むささびの橋」を目指して歩いていたのですが
この日は鬼怒川の上空は不安定で、すでに激しい雨を降らせた雨雲
どうやらまだ、居座っているらしく「ゴロゴロ」不気味な音をさせていたので
これ以上進むのを断念!
この美しい渓谷美のなかをのんびり3~4時間かけて(およそ7km)ハイキングが楽しめるのですが
まだまだ最終的な目的を持つ身です! 先を急ぐことにします。
いざ 会津の地へ・・・!